源氏の家紋といえば笹竜胆紋ですね。
まあこの家紋は自称清和源氏嫡流の頼朝の家紋ではないのですが歌舞伎で「勧進帳」で義経がつけていたので広まったんだろうと言われています。
実際ほかの清和源氏ではあまり使われていません。
どちらかというと宇多源氏、村上源氏が付けていることが多いです。
ちょっと話がそれますが清和源氏や宇多源氏の源氏の前につく名前は何かわかりますか?
先に行っておくと天皇の名前です。
源氏や平氏というのは血筋的には元を辿ると天皇家に行き着きます。
昔は一夫多妻制ですから天皇はたくさんの子供が居ました。
ですがたくさんの子供が居ても天皇になれるのは1人だけです。
また子供だからと言って天皇になれるかといえば微妙で叔父などに横取りされる場合もあるのです。
そうなってくると雪だるま式に天皇一族、いわば皇族が増えてきます。
莫大な金や土地がある天皇、皇族といえども多すぎてはまかないきれません。
そこで臣籍降下というものが始まります。
家臣の身分に落とすというものです。
「もうお前の面倒見れないから自分の食い扶持は自分で稼いでよ。土地やら仕事与えるから・・・」という感じです。
これが源氏や平氏です。
清和天皇の血筋から臣籍降下したから清和天皇、宇多天皇の血筋から臣籍降下したから宇多源氏ということです。
これは平氏も同じです。
ですが源氏は天皇の孫が臣籍降下した際にもらった姓でしたが平氏は孫以降の子孫に与えられた姓なので格的には源氏>平氏だという人もいます。
もう一つは畠山重忠邸跡の石碑です。
畠山重忠は頼朝の覇業を支えた忠臣です。
剛力で正義心と戦に強く、模範的な武士です。
ですが頼朝の死後に頼朝の外戚であった北條氏一族の稀代の謀略の使い手である北条義時に戦を仕掛けられ滅亡しました。
石碑の訳です。
正治元年(1199年)の五月に頼朝の娘の三幡姫が病気になった。これを治すため、当時の名医丹波時長が京都から来たことがあった。『吾妻鏡』によれば七日に時長は中原親能の亀ヶ谷の家より畠山重忠の南御門の家に移住した。これは三幡姫に近くお仕えして、姫の病気を治療するためであったという。この地がつまりその南御門の家の跡である。